娘の通う園の玄関には日めくり標語があり、今日の標語「キレない子にするためにはキレない親になる」に少しだけ。
誰しも自分に無関係な人にはなんの感情も浮かばないのだから、親が子にキレるのは、関心、もっと言えば愛の表れであり当たり前と言えば当たり前のことだ(子どもに伝わらないのは何とも辛いのだが)
同様に、何かに強い関心を持ち、明確な意見を持つことからキレが生まれるのだとすれば、穏やかに感情を表現できるのが完全に良いかというとそうでもないように思う。
大切なのは何にキレているのかということで、例えば、タバコのポイ捨てにキレているのと横断歩道をゆっくりと渡る老人にキレているのは違う。
子どもはその辺をしっかりと見ている。
正当な憤りなのか、そうでない我儘で理不尽なものなのか、それが子の模範となり価値基準になる可能性は高いだろうから、そのの表し方とその対象には気をつけないといけないと感じる。
私自身は、そういった明確な基準を設けながら、他人の子に”キレられる”限りはまだこの仕事を続ける資格があると考えている。
キレるという言葉とは違うか。